インタビュー 情熱と挑戦の先に

「もがいた後には必ず何かが芽生えている」──宮田和弥/J(S)W

ミュージシャン/ジュン・スカイ・ウォーカーズ(後編)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:今元 秀明 01.31.2018

1990年代に爆発的な人気となりバンドブームをけん引したバンド・JUN SKY WALKER(S)(ジュン・スカイ・ウォーカーズ、略称:J(S)W)。バンドの顔として前面に立つのはボーカルの宮田和弥。ソロとして活動を始めたものの行き詰まりを感じ、その後、2007年に期間限定でJ(S)Wが復活。再びソロ活動に戻った宮田には、ある覚悟が生まれていた。(後編、敬称略)

(前編はこちら

宮田にはソロになっても成功できる自信があった。しかし、現実はそう甘くはない。

「一人になって、自由にやれると思っていました。新しいものを取り入れようとするのはいいことでもあると思うのですが、結果、それによって自分の音楽の芯がブレてしまっていました」

明確なカラーを打ち出せず、ビジネス面でも期待ほどには成功しない状態が続いた。宮田は「やりたいことをやっているはずなのに成果が出にくい」という葛藤に悩まされるようになった。

「いままで音楽的にブレなかったのは、(ギターの)森純太のような存在がいたから。それに気づいたのは、解散してからでした。つまり、多くの人たちに受け入れられていた音楽は、自分一人の力ではなくバンドによって産み出されていた。そして、何よりバンドによって自分自身が守られていたことがはっきり見えてきました」

元に戻れない暗中模索の中でのソロ活動。宮田は映画に役者として出演するなど他の分野にも挑戦するが、新しい仕事をするたびに「音楽以外の仕事は自分には向いていない、自分のやるべきことはステージに立って歌うことだ」と感じたという。

「自分は誰のために音楽をやっているのか? ファンのため? 家族のため? 何をしていけばよいのか? 表面上は強がっていましたが、孤独でしたね。いい歳して、世の中は思い通りにならないことを学びました(笑)」

そんなある日、リハーサルスタジオで元ユニコーンのメンバー・川西幸一に出会う。ソロ活動での行き詰まりを感じていた宮田に、同じようなバンド経験を持つ川西から「お前はやはりソロというよりはバンドマンだからバンドを組まなければダメだ。もう一度バンドをやってみないか」と声を掛けられた。宮田は、新たな可能性を求めて川西と共に「Jet-Ki(ジェット機)」というバンド活動を始めた。

「バンドとしてステージに立ち、歌うことで、自分の中にあった大切なものを思い起こさせてくれました」

自分の力が一番発揮できるスタイルこそバンドであることを、あらためて確信した。加えて宮田はソロやジェット機での活動を通じて、J(S)Wに影響を受けたファンが、バンドやアーティスト、タレントとしてデビューし活躍し始めたことを知るようになった。

自分たちがまいた種が、次の世代の登場という形で芽吹き始めたことを知った宮田は、音楽を通した自分たちの役割を認識し始めていた。

期間限定でJ(S)Wが復活

1997年の解散から約10年が経過したある日のことである。ドラムの小林の提案で久しぶりに都内の焼肉屋にメンバーが顔をそろえた。メンバーはそれぞれの居場所をみつけ、音楽活動を続けていた。

「最初はみんな黙っていて、気まずい雰囲気でしたね(笑)。だけど、お酒が徐々に入ると、やはり心にあるモヤモヤしたものが徐々に解けていきました。森とはものすごくすれ違っていたのに、距離が段々縮まり、最後は『20周年をみんなでやるか!』と握手をしていましたね」

2007年、期間限定でJ(S)Wは復活した。メンバーそれぞれの活動を尊重する意味合いを含めてのことである。2008年には全国50本の期間限定復活ツアーを行い、待ち望んだ多くファンの前に戻った。

「どこの会場も、お客さんの声援が暖かかったし、すごかった。J(S)Wを待っていた人たちがたくさんいたことを実感しました。学生だった少年がサラリーマンになって当時のように拳をあげて、ステージの俺たちに向かって泣きながら叫んでくれていました。そんなファンの姿を見て、実はみんなから力をもらっていたのは自分たちだったことに気づいたんです。

30代・40代になっても俺たちを応援してくれる人たちに、また音楽を通して夢をみてもらいたいし、俺たちがそれをやらなきゃいけないのではないか。それぞれのメンバーもそう感じていたと思います」

また4年後にやろう。2020年のオリンピックイヤーに向けてバンド活動をやっていこう――。ファンに説得されたかのように、メンバーのベクトルがそろい始めていた。

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