インタビュー 情熱と挑戦の先に

【DJ KOO】千葉の内気なゴジラ少年、新宿ディスコのDJに

裏にあるのは地道な取り組み:DJ KOO氏(TRFリーダー/サウンドクリエイター)の場合 前編

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:的野 弘路 01.28.2016

音楽グループTRFのリーダー、サウンドクリエイター、そしてバラエティ番組の出演者として活躍するDJ KOO氏。インタビュー前編ではマルチな活躍と長い人気の下地となった、若き時代のエピソードに迫る。

ディスコの発祥の地は、諸説あるが第二次世界大戦中のフランスとされている。当初は、生バンドの演奏に合わせて皆が踊るというスタイルだった。

現在のようにレコードなどの録音された音源を使用し始めたのは、1960年代ごろと言われている。日本でも同時期に、東京の繁華街にディスコができ、芸能人や著名人そして時代を先取りしようと遊び好きな若者がそこに集い、第一次ディスコブームが花開いた。

DJ(ディスクジョッキー)という音楽を選曲する役割が日本に生まれたのもその頃だ。1980年代になるとディスコブームは全国に広がり、DJに注目が集まるようになり、それを職業とする人々が出てきた。それでもDJは夜の世界をバックボーンに持つ、いわばアンダーグラウンド的な存在だった。

しかし1990年代になると、時代の潮流とともにDJをめぐる価値観は大きく変わり、DJという役割は“市民権”を得ていく。

その背景の1つには、ある音楽グループの存在があるのではないかと筆者は思う。

TRF(デビュー当時の表記は「trf」)。1990年代初頭に登場し、日本産ダンスミュージックの礎(いしずえ)になったユニットだ。

このユニットは、日本の音楽シーンを席巻した5人で構成される。ヴォーカルと男女3人のダンサーはもちろん重要なのだが、後方を占めるDJの存在が見逃せない。

そしてこのtrfが、「DJは楽曲中において楽器のように音を奏でる役割なのである」と世間に知らしめた最初のグループなのではないだろうか。当時は斬新だったこの編成は、瞬く間に日本中を魅了した。trfの登場以後、ヴォーカルや楽器演奏者に加えてダンサーやDJをメンバーに加えて一体的な表現をし、世間から高い評価を得ることに成功した音楽グループは多い。

そのようなエポックメイキングと言えるスタイルを生み出した音楽ユニット、trfの中でDJというポジションを明確化させたのが、DJ KOO氏だ。

ドレッドヘアにサングラス。独特なデザインの帽子。その個性的でアーティスト然とした外見からは分かりにくいかもしれないが、DJ KOO氏は、実直で人間味にあふれた人物である。この持ち味が最近、各種のメディアを通して世間に伝わり始めた。そして、そのビジュアルとは真逆のソフトな内面というギャップが、ファン層をさらに広げているのである。

DJ KOO氏のオリジナリティあふれるスタイルはどこから来ているのか。そして永きにわたって活動し続けられているその理由は何か。そして今なぜテレビを中心にファン層が拡大しているのか。秘密に肉薄すべく、DJ KOO氏の幼少期から現在に至る足取りを追った。すると、多彩で華やかにも見えるその活動の裏には、ありきたりかもしれないが大切な自然体を守る意識と、地道な努力が見えてきた。

(本文敬称略)

「ゴジラの美学」

DJ KOO(本名:高瀬 浩一)は、昭和36年に東京・新宿で生まれた。東京でオリンピック開催が決まり、日本中に高度経済成長期の波が押し寄せている頃である。物心が付く前に、両親の都合で千葉県へ引っ越してしまったために、新宿で遊んだ記憶はほとんどない。

「幼稚園になった頃に千葉県に引っ越して、その後高校卒業まで、小学校では3回、中学校では2回の転校をしました。全て千葉県内なんですけど(笑)。だから東京で過ごした記憶というのはないんです。昔の写真とかを見て『そうだったんだぁ』って思うくらい。どうしてそんなに引っ越し繰り返したのか?は、聞き忘れてしまいました。父も母も他界してしまった今となっては、謎のままなんです」

幼少を過ごした家の近所には田園風景が広がっていた。一人っ子のKOOは、少々内気な子供だったという。1人で遊ぶのを好み、多くても友人と2人くらいで、クワガタやザリガニ捕りをして遊んでいたという。

「あまり大人数で遊ぶのは好きではなく、多くても1対1で決まった友達と行動するほうが性に合っていましたね。どちらかと言えば、引っ込み思案でした」

幼少期

その頃、子供たちを夢中にさせたおもちゃがあった。ソフトビニールの素材で作られた怪獣の人形だ。

「怪獣が好きで、集めていました。当時、唯一欲しくて『買いたい』と親におねだりしていたのはそういうビニール製の人形でした」

中でもKOOを夢中にさせたのは、日本の特撮文化を代表する怪獣「ゴジラ」だった。

「お正月になるとテレビの特別番組でその種の怪獣映画をやっていて、それを毎年楽しみにしていました。中でもゴジラが好きで『ゴジラvsキングギドラ』が一番好きだったんです。国内外問わず、いままで製作された全作品はもちろん観ています」

旧作を何度観ても、新作を初めて観ても、映画ゴジラには底知れぬ魅力があると言う。

「ゴジラには、観るたびに新たな発見があるんです。自分の成長や年代とともにゴジラに対する見方が変わるんです。

東京や街が破壊されたりする意味や、宇宙や核開発などへの社会風刺的なメッセージ。そして、それらを通して描かれる様々な人間模様などが魅力なんだと思うのですが、ゴジラの大きな魅力はそこに明白な答えなどないということなのではないかと思うんです。

押し付け的なものがなく、答えは自分で導き出すもの。こここそがゴジラの美学なんだと思っています。そして、そこがエンターテインメントに共通する部分でもあるんだと思います」

KOOは2014年、ハリウッド製作の最新版映画『GODZILLA』の公開に際し、配給元の会社関係者に直談判し、オフィシャルサポーターに就任している。

初のDJ体験はソノシート

タクシー運転手の父、スナックを営む母の元で、一人っ子のKOOは育った。その母の仕事が、後にKOOが音楽への道に進んでいく大きな要因になっている。

「父はタクシー運転手でしたから、朝から晩までの不定期な働き方をしていました。母は、生活している家の1階でスナックを営んでいたんです。

スナックに必要なのはお酒と音楽です(笑)。そのお店はジュークボックスではなくレコードをかけていましたから、沢山のレコードが家にあったんです。使わなくなったドーナツ盤が紙袋に入れられて、2階の押し入れとかにごっそりと。もちろんスナックですから昭和歌謡のものが多く『ブルー・ライト・ヨコハマ』とか、『黒ネコのタンゴ』とか当時のヒット曲のレコードだらけでした。解散前のタイガースとかグループサウンズのものがあって、後々影響を受ける沢田研二さんの声を自然に耳にしていました」

小学生のKOOは、音楽が流れている1階のスナックと、不要になったアナログレコードに囲まれて育っていった。

「自分のレコードと言えるのは、怪獣映画の特別本に付録で付いていた『ソノシート』というペラペラの簡易なレコード盤です。お店の営業してない時間に、その怪獣の声などが収録されているソノシートを勝手にターンテーブルにかけて聴いて楽しんでいました。

そうすると、母が怒るんです。『ソノシートみたいなものをかけると針が傷むからダメだ』って(笑)」

初めてのDJの体験は、実は怪獣のレコード(ソノシート)なのかもしれない。そんなKOOは数年後、歌謡曲を通じて洋楽に出会い、ザ・ローリング・ストーンズにハマり、ハード・ロックを好んで聴く少年になっていた。

「5~6年生の頃は、『明星』とか『平凡』などのアイドル雑誌が隆盛で、御三家とか中3トリオとかの曲を同学年の誰もが当たり前に聴いていた時代です。そんな中で僕は、チューリップやかぐや姫などのニューミュージックやフォークと言われたジャンルを好んで聴いていました。そして、アイドルとは一線を画していた沢田研二さんに憧れてサスペンダーをしてボロボロのジーンズをはいていたんです(笑)。

当時、沢田さんはギタリストの井上堯之さんのバンドを従えていて、カッコ良かったです。しかしその時は、母の店で聴いていたタイガースの人だとは知らなかったんですけどね。

そのうちどんどん夢中になり、沢田研二さんを研究し始めると、タイガースという原点に戻りました。タイガースのレコードを見つけて、アルバム『ザ・タイガース・オン・ステージ』(1967年)というライブ盤を手に入れて聴きました。そうしたら、知っているタイガースの曲は数曲で、英語で知らない曲ばっかり。その中にザ・ローリング・ストーンズのカバーがあったんです」

KOOが初めて自分で買うレコードは、名曲『ジャンピン・ジャック・フラッシュ』が収録されているザ・ローリング・ストーンズのレコードだった。そこから、洋楽に傾倒し、ギターサウンドにのめり込んでいった。

中学生になるや否や、真っ先にエレキギターを買った。

「確かに、沢田研二さんのかっこよさにも憧れました。でもそれ以上に、井上堯之バンドのギターサウンドに惹かれたんです。そして洋楽のロックサウンドに出会って、中学に入る手前だったと思いますが、親戚がやっている飲食店で手伝いをして、そのお金で一番安いギターとアンプのセットと教本を買いました。ギターヒーローになることを夢見始めていました」

同じようにロックに目覚めている唯一の友人とツインギターのユニットを組み、ザ・ローリング・ストーンズに、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンなどのハード・ロックのスターバンドの曲を、次から次へとコピーした。そして、中学生に関わらずビジュアルもロック・ミュージシャンぽく、長髪にしていた。

もちろん、将来の夢はロックスターだった。

「肩くらいまでは平気でありましたね。校則が厳しくなかったんです。親には『勉強しろ』とかは一度も言われたことがないんですが、『髪を切れ!』と毎日のように言われていました(笑)。寝ている間に切られそうになったこともあるんです。

将来は『プロのギタリストになる。なれないわけがない』と思い込んでいました。中学・高校の時期は、うわさになるくらいギターの腕には自信がありました。だから、文化祭などでも自信満々にバンドでギターを弾きまくっていました。でも、当時、自分で一生懸命コピーした曲は、全然正確ではないんです。耳だけを頼りにコピーしていたから、弾き方が間違っているんです。

腕に自信はあっても、身体に染みついた奏法ですから直りません。実は、いまも正確な演奏ができないんです(笑)」