インタビュー 情熱と挑戦の先に

障害者手帳が、自らの背中を押した 車いすバスケットボール選手・土田真由美氏

土田真由美 車いすバスケットボール選手 東京ファイターズB.C/シグマクシス所属(後編)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:中島 正之(特記なき写真) 09.05.2017

そのパワフルで想像を超える動きに圧倒される競技、車いすバスケットボール。土田真由美選手は2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向け、男性選手と共に練習に励む。突然の発病、挫折、転機と新たなるビジョン。逆境を糧に生きる女性アスリートの過去と今を追った。(後編)

(前編はこちら 本文敬称略)

「発症時に、いずれ歩けなくなるとは言われていました。しかし、それが将来的に障害者になることを指しているとは思っていませんでした」

生活の拠点を東京に移した。長時間の歩行はますますつらくなっていた。

どれだけ進行しているのか? 引っ越しを機に、改めて専門病院を探して、検査を受けた。

「少し腰痛を感じていたので、ついでのつもりで病院に行ったら、もう障害者手帳が発行されるほどに悪くなっていたんです。一気に不安が増幅しました」

土田の心は、大きく揺れていた。

「やはりショックでしたね。昨日と今日の自分の何が違うのか、これから先どうなるのか。頭の中でグルグルと、出口の見えない自問自答が繰り返されていました」

自分の将来に対する不安。いままでぼんやりしていたことが、よりリアルに目の前に表れた。

それでも土田は、明るい将来を構築すべく、自分の気持ちをシフトさせた。シフトの原動力になったのは、車いすバスケットボールの存在だった。

「落ち込んでいても仕方がない、ちゃんと事実を受け入れようと切り替えました。唯一救われたのは、私が車いすバスケットボールを知っていたことでした。だったら選手としてトップを目指そうと決めました」

車いすバスケットボールの練習を重ね飛躍のステップを踏む

持ち前の基礎体力と、目標を決めたら努力を惜しまない性質を持つ土田。車いすバスケットボールの練習を重ねていくうちに、全日本チーム合宿への参加の声がかかる。

「30人ほどの選抜選手がいました。そこから国際大会に出場できる登録選手は12人です。まずはその12人に選ばれることを目標にしました。目標を立てたら、ますます車いすバスケットボールに熱中するようになりました」

健常者だった以前とは異なる種類の体力とスピードが要求された。競技に夢中になるにつれ、ホイールを回す腕は筋肉痛になり、タイヤに触れている手は、ブレーキをかけるたびに皮がむけて硬くなった。

「手の皮が厚くなって、女の子の手ではなくなってしまいました(笑)。でも、それ以上の魅力が、競技の中に詰まっていました」

2010年7月、土田は英国で開催されたIWBF世界車椅子バスケットボール選手権大会で、初の日本代表に選出される。

(写真:宮本邦彦)

「日本代表のユニフォームを着るということはもちろんうれしかったのですが、日の丸を背負うという重みも感じていました。でも、代表に選ばれたからにはそれに恥じない選手に絶対になってやろうと決心することもできました」

初めての世界大会で、土田は海外の選手たちとの体格差とパワーに圧倒されたという。だが練習の積み重ねが効き、海外の選手たちの中でも7位に食い込めた。

土田が大会に出て肌身で感じたのは、日本をはじめとした世界各国が、車いすバスケットボール選手の育成や技能強化に向けて積極的にサポートしていることだった。

選手として自らを存分に伸ばすだけの環境は整いつつある。もっとこの競技を突き詰めたい。練習量を増やすべく、土田はそれまで勤務していた企業を辞め、車いすバスケットボール中心の生活に変えた。

「フルタイムの勤務を辞めました。経済的な安定よりも、やはりもっと競技を突き詰めてみたい。自分がどこまでできるかを試してみたかったんです。世界とも互角に戦えるような、より強い選手になりたいと思ったんです」

この決断が、土田を選手としてより大きく成長させることにつながった。2年後の2013年、全日本女子車椅子バスケットボール選手権大会で土田のチームは優勝し、土田はその大会のMVPを獲得した。