インタビュー 情熱と挑戦の先に

【クレイジーケン】大事なことは横浜、父親、旅行、映画から学んだ

ヒラメキの瞬間を探る 横山剣(ミュージシャン)の場合 第1回

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:的野 弘路 09.17.2014

遅咲きの37歳で再々デビューし、瞬く間に全国にその存在を知らしめたクレイジー・ケンこと横山剣氏。第一線を走り続けているケン氏のヒラメキの瞬間を探る。

今年の夏前に放送されていたテレビドラマ「続・最後から二度目の恋」(フジテレビ)のエンディングテーマをご存じでしょうか?主人公の小泉今日子と中井貴一の二人が軽快に楽しそうに歌っていたチャーミングな昭和歌謡的な楽曲。実はその曲を作詞、作曲したのが横山剣さん。その他にもTVCMでさり気なくケンさんの声を耳にします。

ケンさんが生まれたのは1960年。その頃の横浜には米軍基地がまだあり、色濃いアメリカ文化が根付いていました。そんな横浜で生まれ育ったケンさんの中には、自然にロックやR&Bや歌謡曲や演歌などの全てジャンルを飲み込む「アメリカ×ジャパン」的な独特の世界観の土壌が育まれていました。

そしてその土壌では今もなお、新しい種が生まれています。アーティストであり経営者であるそんな感受性バリバリのケンさんのビジネススタイルは、ほぼ全てが叩き上げの独学でドタバタしながら習得してきたオンリー・ワンな技術のようなものだったんです。

「気がついたら音楽を好きとか嫌いとかいう前に、頭の中で音楽が鳴っていたたんですよ。ピアノやギターを習ったこともないから、アカペラとかでテープに録音してみたり、勝手にピアノとかを触って独学でコードを開発していたんですね。ピアノ教室のようなところに通うことも考えたんですけど、学校の音楽の時間もろくすっぽ分からないから……。得意なというより好きなことからドンドンやっちゃうタイプ。だから、基礎ができていない。基礎ができていないから、後々、伸び悩む原因にもなっちゃったんですが…」

ケンさんが小学生低学年の頃は、世の中はGS(グループサウンズ)や歌謡曲、演歌が華やかな時代です。

基礎を知らず、独学、自己流で作曲をし始めていたケンさんは、自分の中に生まれた『目に見えない音』を表現するためにどのような方法を使って、形にしていったのでしょう?

「自分の中で鳴っている音というのは、いつまでも自分の中にだけあってもそれで終わっちゃうでしょ。それだとやっぱり自己満足になっちゃうし、どうやったらそれを取り出せるかを考えて、基礎を持っている人を“活用”したんですよ。譜面の読み書きができる人の前で、僕が鍵盤を弾いて『ちょっとこの和音の名前は何て言うの?』とか、そういう感じでちょっとずつ自分に必要なことだけを聞いていました。

自分にとって必要なことだけは、簡単に覚えられるでしょ?だから、本当に自分に必要だと思えたらそんなに苦労しなくてもできるようになるんですよ。英語とかも全くできなくても、アメリカで生活することになったら、ほっといても話せるようになるでしょ。あとは、好きこそ物の上手なれじゃないですけど、好きだとどんどんのめり込んでいくじゃないですか。本当の教育って、実はそっちの方が身に付いちゃうんじゃないかって」

父との二人旅

「好きこそものの上手なれ」の典型的なスタイルで、独自の音楽知識をパワーアップしてきたケンさんは、自分にしかできないモノを作り上げてきました。その原点は、生まれ育った街「横浜」も大きな影響を与えてくれていますが、そのもっと根源的な部分には、自分をこの世に誕生させた父の存在があります。

幼少時代のケンさん、父と一緒に(写真提供は横山剣氏)

「小さい頃しか一緒に居なかったんですが、気が合ったんですよね。話が通じるというか……。思っていることがすぐに分かり合えるというか……。例えば、女の話とか……(笑)。女はこういう髪形にこういうサングラスがかっこいいとか……。他に、色の組み合わせの話とか……。本当にいろんなことが感覚的に合っていたんです。母親とは違い、勉強の話は一切しませんでしたね(笑)」

そんな男同志の感性的なつながりを感じていたケンさんを、お父さんはアメリカ本土やハワイに連れっていってくれます。ケンさんが11才の時、1971年です。今とは違い、海外旅行はまだまだ豪華でぜいたくな時代です。

特に子どもには……。しかし、その体験が横山剣さんの未来を大きく変えていきます。

「実際は、そんなリッチではなかったんですが、無理をしてでも自己実現のためにかなり無理をしちゃうような人だったんですね。実はお金に困っていたりもしていたんですけど、みじんも感じさせなかったんです。豪快というか、取りあえずやっちゃって、後で何とかしちゃうんです。だから失敗も多いんですけど、失敗することで経験になるからよし!という感じでした。よく言っていたのは、見る前に飛べという言葉。それを僕はずっと実践してきたつもりなんです(笑)」

感性豊かなケン少年には、そんな父親とのこの旅がビンビンに心に響き、そこでの体験が後々の自分のスタイルのベースになっていったと振り返ります。

「初めて行く海外ですから、興奮していました。特に飛行機の中の空気感とかはすごいよく覚えているんですよ。機内音楽、いわゆる『JET STREAM』的なものです。大人になってからその時聴いた音楽に触れると、一瞬にしてその頃の記憶が蘇ってきます。

またロサンゼルスでは、巨大なオレンジ色のボールに青い『76』の数字が目印の『ウノカル』ってガソリンスタンドがありますよね。あの巨大な球体がギーギーという音を立てて回っていたのに驚いたのを覚えています。『デケーッ!』って。

それからハワイでは、香りですね。柔軟剤やプールサイドの何とも言えない独特な香りが大好きになりました。そして、旅をしながら一風変わった日本庭園や中国と混ざったような変な日本語の文字など、アメリカに存在する“変な日本”をたくさん感じていました。そして多くの日系人に遭遇して『なんで日本人の顔をして英語が話せるのだろう?』と不思議に思っていましたね。その違和感が面白くて、忘れられない。

でもラスベガスにも連れていかれたんですが、自分にはなんでこの砂漠の中の街が、面白いのかはさっぱりわからなかったです。父は、楽しんでいたんだと後々わかりますが……(笑)」

父とのアメリカ旅行(写真提供は横山剣氏)

その時に感じたアメリカでの音や香りや色、文字、日系人など。眼にした風景が後にケンさんの音楽の作品に色濃く、そして大きく影響していると言っても過言ではないでしょう。

家飲み酒とも日記