インタビュー 情熱と挑戦の先に

【栗城史多】「生きていること自体が冒険だ」

挑戦の原点を探る 栗城史多氏(登山家)の場合 第3回(最終回)

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:菅野 勝男 12.11.2014

8000m級の山を単独・無酸素で制覇し続けている栗城史多氏。栗城氏の冒険心の原点に迫るシリーズの第3回(最終回)は、栗城氏が掲げる「冒険の共有」に込めた思いを深掘りする。

【注:5月21日、栗城史多さんの所属事務所は、栗城さんがエベレストで下山途中で遭難し、お亡くなりになったことを公表しました。ご逝去を悼み、ご冥福をお祈り申し上げます。】

前回からの続き

ネットを通じた自身の登山生中継を経験し、栗城は1人の登山家から多くの人たちとともに歩む「分身」のような存在へと変わっていった。数々の山々の体験を繰り返しながら、悪戦苦闘する栗城への講演の依頼なども数が増えていった。そんな栗城には、多くの人に伝える明確なメッセージがある。

「夢は叶うか叶わないかは関係ない。夢を持つことに意味がある」。そして「希望(夢)を持ち、行動することが生きることだ」と言い切る。この考えは山を経験したからではなく、実はその原点は彼が小学校5年生の時にあった。

「僕の父はちょっと変わった人で、小学校5年生の時はメガネ屋を営んでいたのですが、『本業は町づくりで、メガネ屋は副業だ』と言って、温泉を掘り当てた経験を持っているんです。

父は、町に伝わる伝説を信じ、それを頼りにして、河川敷を掘り始めました。たった1人で、しかも楽しそうに。すると、その姿を見て手伝う人たちが集まり、数年後には本当に温泉を掘り当ててしまったんです。

『町に温泉をつくって、お年寄りたちに喜んでもらいたい』という父の言葉や、楽しそうに掘り始めていると人が集まってきて、みんなが明るく作業していたことは忘れられません。一人ひとりが夢をもつことによって、自分を、家族を、友達を明るくし、さらには日本を明るくすることができるのではないだろうかと思ったんです。

夢は持つだけで前向きになれるものだし、もちろん失敗や挫折もありますが、それで終わりではない。終わりって、夢をあきらめ、歩みをなくした瞬間に訪れるものだと思うんです」

父の背中を見て、父のように生きたいという気持ちを抱いた。その火種が、山々を経験することによって、確信へと変わり、栗城の使命になっていった。

「ある人が『山に逃避するなよ。山を通して人を知り、人を通して自分の使命とは何かを知りなさい』と教えてくれたんです。そして、自分の使命とは何か?を考えました。理想と現実のギャップに翻弄されて、夢が夢のまま終わるのが当たり前だと思うようになってしまった人たちも多いと思います。

インターネット中継を実現し、自分と同じようにたくさんの人が持っている「不可能という心の壁」を取り払いたいんです。できないと思ってやめてしまったら、絶対にできない。でもそれは、自分の心が決めているだけで、本当はやってみたらできるということが絶対に多いはずです。

父の件もそうですが、叶う夢は、必ず世のため、人のためを考えていることだと思います。そうすれば、たくさんの人たちが支えてくれます。そして夢を叶えるために必要なことは、夢を『志』に変えることだと思います。だから、僕の使命は『エベレストから夢が実現する瞬間をたくさんの人に伝えること』だと思っていますし、世のため人のために自分の命を果たす覚悟を持つことだとも……」

エベレストからのインターネット生中継を通して、夢を達成する瞬間を多くの人たちと共有することを目的として「冒険の共有」を掲げた。そして、自ら作成した企画書を持って多くの企業を訪問している。

エベレストに遠征するだけでも多くの費用が必要なうえ、インターネット中継用の機材費用、衛星通信費、人件費など、実現のためには膨大な資金が必要だ。

「スポンサーを獲得するために、街を走りまわっています。街を走り回るのは苦痛ではないんです。なぜなら、山にいる時だけが登山というわけではないからです。

僕が目指しているのは持続可能な登山です。『何のために登山するのか?』それを明確にして、企業との相互性を考えてスポンサーに喜んでもらえるものを考えています。単純に『エベレストに行くので応援してください。資金提供してください』というような営業はしません。断られても大切にしていることは、企業の人たちと知り合いになり、友達になることだと思います。興味を持ってくれた人が、上司に伝えてくれて、役員さんや社長さんに伝えてくれるようになりました。

企業のトップの人たちとお会いできる機会を得ると、その経営者の方々は、登山家と同じように命をかけているんだと感じることがあります。自分だけでなく社員の命も背負っている。

経営者の人たちだけではなく、誰にでも言えることですが、生きていること自体が冒険なんだと思います。たくさんの人たちに会えて、その人たちから学ぶことも多いです。ヒマラヤで自然の偉大さを学び、下界では人間学を学んで、そこで自分は今何をすべきなのかということを、自然に身に付けることができたのではないかと思っています」

世界の山と都会の中に潜んでいる山。そんな山々を登る日々の中で、栗城は自分だけが単独・無酸素で登頂することに意義を感じていたのではなく「冒険の共有」することに意義を感じていた。

そして、2009年から2012年にかけての4年連続エベレスト挑戦は続いた。続いた、ということは、成功に至っていないということだ。

しかもその挑戦には、無情ともいえる自然の脅威が彼を待ち受けていた。

エベレストという世界

他人が自分の体験を通して変わっていくということを知った栗城は、自分の活動をインターネットで生中継をするために、理解と賛同を示してくれる企業を求めて奔走した。いつしか栗城の生活の拠点は必然的に東京になり、そして、その全ての活動が「冒険の共有」となった。

世界最高峰エベレストに挑戦する季節が最も良いとされるのは春だと言われている。しかし、栗城の挑戦は秋なのだ。

「エベレストの夏はモンスーンといって、雪が毎日降っているので雪崩の危険性が非常に高くなります。冬はとてもではないけど人が生きていられないほど気温が下がりますし、日照時間も短い。最も登山に適しているのは天候が比較的安定している春です。

しかし、春のエベレスト登山の問題は、実は人が多すぎるということなんです。その時期、ベースキャンプ地には世界中から約800人の登山チームが集結します。そして天気良い日にその登山家たちは世界最高峰の頂上を目指すことになります。すると頂上付近で『渋滞』が起きるんです(笑)。エベレスト全体は大きくても、さすがに頂上は小さいんです。渋滞待ちが起きる。

その渋滞待ちをしている間に天候の変化、高度による体調の変化などによる様々な事故が併発します。そして、実はそこで何人もの人が亡くなっているんです。僕は酸素ボンベなどを担がない、いわゆる『無酸素チャレンジ』をやっていますから、そんな空気の薄い高度で、渋滞などを待っていられる余裕などないんです。とにかく滞在時間をいかに短くするかということが重要なんです。

滞在時間が長くなればなるほど、どんなに体力があっても一気に衰えていきます。つまり最終アタックは、早く行って早く帰ってこないといけない時間との勝負でもあるんです。しかし秋は日照時間が短くなってくる季節ではあるのですが、酸素が比較的濃いんです。それで人が少なく、酸素の濃い時期を選ぶと秋になるわけです。

しかし、夏のあとはジェットストリームというとてつもない強風が山頂付近を襲う可能性が高い。普通なら不可能だといわれている無酸素登頂をするためには、その細かい気圧の変化を読んで、風が一瞬弱まる日を狙うという神業に近いタイミングを狙うことになるんですが……」

ボンベを担がず無酸素で、そして登頂チームを編成せず1人を選ぶ理由とは?

「無酸素を選択するのは、思いっきり山を感じたいからです。山って、征服するものじゃなくて感じるものだと思うんです。大自然の山を感じたいというだけなんです(笑)。そしてもう一つ、単独を選ぶのは……。

例えば、5人で登山をするとします。確かにチームワークとか、みんなで味わう感動とかもあるとは思います。1人だと孤独感もある、不安もあります。どうすれば良いか迷うこともたくさん……。でもそれも含めて、本来の自然の姿だと思っているんです。未知の世界と一体化し、エベレストと僕の一対一の関係を感じられると思っています。

そして本来、人間は自然の中で感じなきゃいけないものがたくさんあるはずだと思うんです。だけど、テクノロジーが発達してくると、悲しいことに自然に対して傲慢になったりして、本当はそこで学べるような素敵なことを学べないようにしてしまっているのではないでしょうか。それがすごくもったいないなと思っているんです」

2009年9月下旬、念願のエベレスト登頂を多くの仲間と共有するためにベースキャンプまでたどり着いた。

2009年におけるエベレストアタックの様子(提供:栗城事務所)

しかし、その年の10月1日は中華人民共和国の建国60周年の記念日。首都北京では国慶節という式典を大々的に行う。このため中国政府は、歴史的に人権問題を抱えているチベット自治区での暴動や混乱が起きないように、様々な規制をかけていた。チベット自治区を対象とした外国人の退去やヒマラヤの登山期間短縮などだ。

エベレストはネパールと中国チベット自治区の国境沿いにあり、中国政府からすると政治的に難しい存在である。日本の若い1人の登山家がインターネット中継を通して政治的なメッセージを配信するのではないか、という疑念がかけられていた。

*チベット自治区:中華人民共和国の西南部を占める区域自治区を差し、チベット高原南部には急峻な山々が峰を連ね「世界の屋根」と称されるヒマラヤ山脈が存在する。しかし、1956年に独立運動「チベット動乱」が発生して以降、今なお人権的・宗教的問題を抱えており、自治権・独立性・領域などについて中国政府と主張が度々衝突し、不安定な治安状態にある。

「どうしても中継をやりたかったんです。自分の使命が『夢を伝えること』ですから。それがなかったら、登山の意味がない。最後の最後まで中継ができるように模索しました。時間にも制約がありました。インターネット中継の許可を待ち続ければ続けるほど、山の日照時間は短くなっていきます。そして、気圧が下がって酸素が薄くなり無酸素では厳しい状況になります。『生中継はきっとできる』というかすかな可能性を信じて登ることにしました。

しかし、中継のできない可能性を感じて登ることで、集中力は下がっていたんです。ベースキャンプを1人で出発して2日後、残念ながら中継を断念せざる得ないことになりました」

中断が決まったということは、2年前から資金を集めるために企画し、準備してきた「冒険の共有」の全てができなくなったことを意味する。

その瞬間から、栗城の目の前にあるのは「夢は希望への壁」ではなく、単に大きな山になった。

心も体も全ての力が半減した。しかし、そんな状態でも頂上を目指した。

しかも高度8000mでは、酸素量は地上の3分の1になる。生命を維持するのに不十分になる「デス・ゾーン」と呼ばれる地帯だ。心身ともに万全でなければ危険状況だ。しかし、自然は容赦はしない。

*デス・ゾーン:エベレストではその“死の地帯”では多くの時間を費やさなければならない。ただ酸素量が少ないだけでなく、気温が非常に低くなり、露出した空気に触れている部分は凍傷になる可能性がある。また雪は完全に凍結し、スリップしやすく滑落の原因にもなっている。

「高度8000m近くでは、夜も横になって眠ることは許されません。横になって眠ってしまうと呼吸が浅くなり酸素が身体に入りづらく、そのまま死んでしまうことあります。小さなテントを張り、朝が来ることを待っていました。いつの間にか眠っていて、低酸素状態。身体が重く、一つひとつの動作がスローモーションのようになっていました。それでも登頂を開始しましたが、空間も体もすべてが止まり始めていました。

目的地まで、横に180mと縦に100mほど進めばたどり着くはずでした。しかし、日没の時間が迫っていたんです。夜になったら、それだけ危険性が増します。でもあと少しで到達できる。あと50m、もう目の前です。しかしその距離は、超8000m地点では果てしなく長い距離でした。そこに向かったら二度と戻れない。帰還する力がなくなることはわかっていました。

7700m地点にあるキャンプ2まで下がり体力を回復させ、再チャレンジをすることも考えましたが、その高度に下がっても、無酸素では体力が回復することはないとわかっていました。ベースキャンプとのやりとりは何度か続きました。

そして『ここから先は、生と死の分岐点です』という無線が入ったんです」

通常の人が高度8000mの地点にいきなり連れてこられたら、2分ほどで気を失うと言われている。それだけデス・ゾーンにおける人間の消耗はすさまじい。高低差約1000mを歩くのに12時間かける人もいるという。

栗城は、大声で叫びながら泣いた。

登頂という夢がなくなった瞬間だった。

真っ暗な夜の下山。意識が朦朧(もうろう)としている中で、たくさんの人たちのメッセージが無線を通して読み上げられていた。そして、ベースキャンプで待つ隊員一人ひとりからも懸命のメッセージが暗闇の中の栗城に届けられていた。

栗城と仲間たちはつながっていた。つながっていることを確認、確信できたからこそ、危険な夜行の中でキャンプ2にたどり着くことができた。

「登頂という挑戦は、頑張ればできると思っていました。でも、帰還しなければ意味がない。冒険の共有はできていなかった。帰ってこなければ、再チャレンジもできませんから。『また、ここに必ず来る』と泣きながら誓って、下山しました」

目の前に頂上があっても、それはゴールではない。先輩が教えてくれた教えが今も活きている。

世界最高峰の頂がすぐそこまで、手の届く位置まで来ているにも関わらず、断念し、次回のために生きて帰らなければならないということは、自然の摂理の中で学んだ判断力と精神力だったのだろう。

「登山で大切なことの一つは『執着をしない』ことです。引き際がすごく重要です。何でもそうですけど、どうしても目標地点が見えてくると頑張ろうとしてしまう。けれど、そこだけを見過ぎてしまうと、実は危険なことを見失いがちになります。

それをいかに客観的にいられるか? 頭で理解をしていても、やっぱりその場では思いが強くなっているぶん、全く違いますから、その判断は非常に難しいんです」

再チャレンジを誓い、翌2010年には政治的なことに左右されないネパール側からの登頂を計画。

現地に向かう途中で、スタッフが飛行機2機に分乗した。そして、栗城が乗っていない飛行機の1機が墜落した。カメラアシスタントをしてくれるネパール人のシェルパ仲間を失った。 

そして翌2011年には、日本から帯同してくれていたベテランの山岳カメラマンが、到着後3日目にくも膜下出血で倒れ帰らぬ人となった。

不幸にも、まっすぐに山と向かい合えず、いずれも途中で登頂を断念した。

*シェルパ:ネパールの少数民族のひとつだったが、20世紀に入り外国人のヒマラヤ登山が始まると、高地に順応した身体を買われて荷物運び(ポーター)として雇われるようになる。その後、登山技術を磨き、案内人(ガイド)としても雇われるようになり、今や彼らなしではヒマラヤ登山は成立しないと言われるほど重要な存在となっている。