インタビュー 情熱と挑戦の先に

【ファンキー加藤】「無気力の延長線」が、ラストチャンスに賭けた理由

全力投球の原点を探る ファンキー加藤氏(音楽家)の場合 第1回

文:十代目 萬屋五兵衛 / 写真:菅野 勝男 12.22.2014

幅広い層から支持を受け、絶頂のうちに解散したFUNKY MONKEY BABYS。元リーダーで今はソロ活動に邁進するファンキー加藤氏の「全力投球」活動の原点を探る。

皆さんは、自分が絶頂期を感じている時に、第一線を退くことができるだろうか?それが必然的に決められていたとしても……。

新たな道に進むために自分が率先して決めたことであれば、前向きに捉え力強く前進も出来る。

「FUNKY MONKEY BABYS 人気絶頂期での解散」

スポーツ新聞等のメディアを賑わせたのは、既に昨年のことだ。

2006年にデビューをし、瞬く間にお茶の間の人気者になった八王子出身の3人組、それがFUNKY MONKEY BABYS(ファンキー・モンキー・ベイビーズ、通称:ファンモン)。街でよく見かける、どこにでもいそうな、特にすごい男前でもない、元気な普通の青年たちだった。

しかし実は、そんな彼らのファンは、アイドルによくある10代20代の若い女性だけで構成されていたわけではない。30代40代の年齢的にも働き盛りの男女や、中高生くらいの子供を持つ40代や50代の見るからにお父さんやお母さんたち、そして幼稚園や小学校低学年の小さな子供たちだった。

2013年6月の東京ドームで行われた最後のコンサートはそんな老若男女で超満員になった。解散を惜しむ中年男性たちの涙がとても印象深かった。

プレイそっちのけで、言葉では表現しにくい“変な”踊りを披露する強烈キャラのDJケミカル。いつも飄々(ひょうひょう)として独特のテンポ感でその存在を、まるで雲のように変貌させるヴォーカルのモン吉。そして、まるで青春という文字に秘められた全エネルギーを、豪直球で投げ入れてくる同じくヴォーカルのファンキー加藤。

モニターに映る、過去の映像を見れば見るほど、不思議なバランスの中で存在していたグループだったと感じる。

そのFUNKY MONKEY BABYSのリーダーだったのがファンキー加藤だ。

メンバーやファン、そしてスタッフも含めて、強力な牽引力を発揮し続けてきた中心的存在が彼だった。

なぜあれだけのファン層を魅了して、全国的な人気グループになっていったのか? そして何をエネルギーにして、宿命的に決まっていた「解散」という最後のステージまで全力投球をできたのか?

解散から1年が経ち、ソロとしての活動の第一章がはじまったばかりの、そんな彼の原点を探る。

(敬称略)

「いわゆる田舎者なんです」

ファンキー加藤が生まれたのは東京八王子。ファンなら誰もが知っているファンモンの出身地だ。今でも彼らが生まれ育ったこの街には、彼らが今でも訪れているたくさんの店舗が存在し、ファンの間では“聖地”として今も尚全国からファンが訪れている。

加藤は、この東京のど真ん中から少し外れ、少し奥に行けば緑豊かな自然が溢れている都市・八王子で育った。

「やんちゃ坊主でした。八王子の山奥育ちなので、いわゆる田舎者なんです。いわゆるゲームセンターなどで遊ぶというよりは、山や川などの自然の中で育った感じだと思います。山の中に段ボールで秘密基地を作ったり、木にロープをくくり付けてターザンごっこをやったり、そんなことばっかりやっていました。

多摩川の上流の秋川の渓流で泳いだり、田んぼでオタマジャクシ捕まえたり、そんなふうに、毎日泥だらけになって遊んでいました」

小学校にあがると、目立ちたがり屋の性格が表れ始める。例えば、児童会長に立候補して会長になったり、学芸会のときには、自ら演劇の主役級の役を獲りに行った。人よりも一歩前に出てちょっと目立ちたい。昔からお調子者だったという加藤だが、何気にちょっとしたこだわりを抱いていたという。

「小学校5年生の時、『泣いた赤鬼』という物語の演劇があったんです。その青鬼役をやりたかったんです。赤鬼じゃなく、青鬼の方が魅力的でした。わざと悪さをして、わざと村人から嫌われて、赤鬼を立てる青鬼が……。そういう縁の下の力持ち的な存在や、ヒール役をわざと買って出る青鬼の心意気に惹かれていました」

そんな加藤は3兄弟の次男坊だ。ただ、兄と弟は加藤とは違い、そんなに目立ちたがり屋ではなかった。いつも正月などの親戚などの家族一同集まると、大人たちの前でふざけて、歌を歌ったりギャグを披露したりして、みんなを笑わせていたのが、次男の加藤だった。

「みんながワッと笑ってくれるのがすごく嬉しかったんです。その快感がありました。それと、おやじとおふくろが車を運転しているときに良く車内に流れていたのが安全地帯やアリス、長渕剛やサザンオールスターズなどの曲でした。だから、中学生になると、フォークギターを持ってきて、長渕剛さんの歌をみんなの前で歌ったりしていました(笑)」

音楽、それも日本のポップスを良く好んで聴いていた両親。実は加藤の父は、若い頃グループサウンズのコピーバンドをやっていた経験を持つ。その流れが、自然と加藤に音楽の楽しさを教えてくれた。

「『ブルー・シャトウ』とかタイガース……。おやじが、コピーバンドをやっている写真が白黒で家にありました。

聴いたことはないですけど、歌というものは結構身近にあったんだと思います。だから家にアコースティックギターがあって、ギターはおやじから教わったんです。それで長渕さんも聴き始めて、アコースティックギターで弾くようになり、よく夜までみんなで、『みんなの歌本』みたいな分厚いコード本をを開きながら、昭和歌謡とかフォークソングとか歌っていました。

兄貴と弟はあんまり歌うの好きじゃなかったけど、俺は歌うのが好きでした。だから、親とカラオケなんかもよく行ったし、小学生でしたがスナックとかも行きました(笑)。ステージでみんなの前で歌う、カラオケボックスとは違う、他人の前でも堂々と歌うスタイルです」

川や山で大いに遊び、親の影響で歌うことの楽しさを知った。そんな歌好きの加藤だったが、幼少期から少年野球チームに所属していた。

小学校時代。カップのトロフィーを持っているのが加藤氏(提供:ファンキー加藤氏)

当然のように中学生になったら野球部に入ったが、実は球技が不得意だった。

「中学生になった時に『オレ、野球の才能ないな…』と気付きました。1つ上の兄貴と1つ下の弟の年子なんです。全員で野球をやっていたんですけど、2人は抜群にうまかったんです。

身近なところに自分と比較できる存在が居ました。俺もそれなりに努力はしたつもりだったんですけど、何かダメだなと思っていたんです。足は速かった。学年で一番速かった。マット運動も得意だった。鉄棒も得意だった。でもそこに球が1つ加わるとダメになっちゃうんです、急に……。

つまり、球技系チームスポーツよりも、自分の体1つでするスポーツというのは得意だったんです。サッカー、バスケ、バレー、野球……ボール系、ダメダメでした(笑)」

そんな加藤が、自分の熱中できることを側にあった音楽に傾けていくのは当たり前だったのかもしれない。自分の好きな音楽を家族以外の他人と組んで、何かを表現しようとスタートしたのもその頃だ。

「勉強はあんまりしてなかったんです。放課後は野球とバンドを交互にやっていたんです。2年生の時に、やはり歌うことがすごく好きだったから、何かバンドとかやりたいなと思っていて、それでフクモトって奴と出会って『ギターとベースはいるから、ボーカルやる?』って言われたんです。『ああ、やる、やらせて!』と言ってすぐに仲間に入りました。その後ドラムも見つけて4人で、『エンペラー』と名乗り、BOOWYのコピーバンドを組みました。それが、本格的に他人の前で歌う音楽人生の入り口だったのかもしれません」

*BOOWY:氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことを中心に活動し、絶大な人気を誇った日本のロックバンド。1982年のデビューから1987年解散するまでの約5年間、音楽史に刻まれる数々の伝説を残したと言われている。

卒業間際の最初で最後のライブ

BOOWYのコピーバンド「エンペラー」が緩やかにスタートした。初のバンド生活にのめり込んだ。憧れていたBOOWYの半分以上をコピーできるまでになった。演奏曲数が増えた。あとは「ちゃんとライブをやってみよう!」となり、卒業も間近になった頃、エンペラーの最初で最後のライブが行われることになった。

「中学生ですからやっぱりお金ないし、ライブハウスを借りて演奏するなんて出来ませんでした。エンペラーとして人前でやったのは実質この1回だけなんです(笑)。近くの公民館の1室を借りて、自分たちでアンプを持ち込んで、ライブという形でやらせてもらったのが中学校3年生卒業間近でした。チケット販売なんてやってもみんな買ってくれるわけないから『とにかく来て!』と声を掛けまくって学校のみんなに集まってもらいました。

だけど、普段、学校で普通にみんなと接しているじゃないですか…。来てくれたのは良いんですが、こっちも向こうも恥ずかしくて、恥ずかしくて…。ステージもないから平面なんですよ。それで、何を勘違いしたのかパイプいすを並べて客席をつくっちゃって、みんな座ってロックのBOOWYを聴くという謎の2時間のライブでした(笑)。先生まで来てくれていたんです。だから先生がその変な空気に気を使ってくれて『みんなどうしたんだ?せっかくエンペラーがやっているんだから盛り上がろうぜっ!』って(笑)。みんな苦笑いして『ハハハハ……』みたいな、手拍子を仕方なくしているような状態でした」

当たり前だが、観客に向かって会場を一つにするような、今の加藤は想像もできない。

「氷室さんにみたいにカッコよく『ようこそっ!』とかできないんですよ(笑)。『あ、どうもー、エンペラーでーす』みたいな……。いまいち盛り上がらないまま終わっちゃいました。その後、その公民館の別室でPTAのお母さん方がお菓子とか用意してくれていて、そこでみんなで話している方がめっちゃ盛り上がりました。そんな解散ライブでした」

そこからモン吉やDJケミカルに出会いFUNKY MONKEY BABYSを結成するまでの加藤の生活は、自称「ファンキー加藤の暗黒時代」。本人にとっては「もう一度やり直せるならやり直したい」という、不毛な数年間がはじまる。

「高校に入ると、ちょっと思春期と反抗期をこじらせて、頑張ることが恥ずかしい、頑張っている人をせせら笑うような良くない性格でした。すごく斜に構えていたんですね。スポーツでも勉強でも、音楽でも何かに夢中になって頑張っている人に対して『なに、頑張っちゃっているの?恥ずかしいな、あいつら』みたいな嫌な性格でした。

頑張っていることを隠す方がかっこいいと思っていたんです。そういう空気が学校にあったんだと思いますが、情けないことにそこに思いっきりのみ込まれちゃって……。中学生の時は恋愛もしたし、野球も頑張ったし、バンドもやったしと、すごく思い出がいっぱいあるんです。

だけど、高校の思い出はほぼないんです。バイトは、本当にお金が困った時にちょこっとやったぐらいです。それなりに友達とつるんで、何か放課後にそいつの家に行ってウダウダやっていた、それなりに笑ったりけんかしたりしたことはあるんですが、面倒くさいことは排除していたし、だから部活なんかもやらないし、帰宅部でした」

覚えていない。人は自分にとって都合の悪いことや、思い出したくない時間を忘れるようにできていると聞いたことがある。高校生くらいの10代の核になる時期は、その思春期を謳歌できるタイプと、まったくできないタイプの両極がある。いや思春期だけではなく、どの時代や世代にも共通する。

恋もしてない。バンドもやってない。勉強もしていない。ほぼ何もやってない。核になるものがない生活は苦しい。

「いまだにそれがすごくもったいないことしたと思って。今になって思えば、そういう体質というか、学校の空気も、自分で変えられたんじゃないかなと感じています。野球も都立で一番強いといわれている高校と言われていたくらいだったので、そういう強豪校に自分の身を置けば、何か新しい景色が見えたかもしれないのですが、そこから1回逃げちゃったんです。それが、たぶんその後のいわゆる『ファンキー加藤の暗黒時代』と呼ぶ、どうしようもない時代に突入するきっかけになっちゃったんだろうなと思っています」

そんな核になるものないまま3年間が過ぎ、核のないまま就職することになるが、やはり核がないので、わずか1年余りで退社をすることになった。