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金田 信一郎(かねだ・しんいちろう)

日経ビジネス編集委員

金田 信一郎

1990年日経BP社入社、日経ビジネス記者として企業不祥事や経済事件を長らく担当、2006年ニューヨーク特派員、2010年副編集長に就任。2014年から日本経済新聞編集委員として企業事件を取材、その記事を加筆修正した『失敗の研究』を2016年に出版。2017年より現職。

◇主な著書
失敗の研究』(日本経済新聞出版社) 2016
テレビはなぜ、つまらなくなったのか』(日経BP) 2006
真説バブル』(日経BP) 2000

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

リニア新幹線 夢か、悪夢か

東海道新幹線はいらなくなる?それはないよ!

2018年8月21日(火)

 4月にJR東海社長に就任した金子慎氏は、リニア計画のバトンを引き継いだ。9兆円をかけて大阪までを時速500km、67分で結ぶ壮大な計画だが、問題が山積している。詳細は日経ビジネス8月20日号(発売中)で21ページにわたってレポートしているが、経営トップとして、どう難局を乗り越えようとしているのか、数々の疑問を聞いた。

金子慎(かねこ・しん)
1955年生まれ。78年、東京大学法学部卒、日本国有鉄道入社。87年、分割民営化でJR東海に入社、2004年取締役総務部長、08年常務、10年専務、12年副社長を経て、今年4月に社長に就任(写真:的野弘路)

1987年のJR東海発足時は、国鉄時代の巨額の借金を背負ってスタートしたが、今では6000億円近い経常利益を生み出す企業体となりました。それが今、壮大なリニア計画を実行する土台になっています。

金子:私は国鉄に9年間在籍しました。それからJR東海になって、今年32年目ですね。民営化後、会社は大いに発展しました。幸運もありますし、それから道筋を立てた先輩方の努力もあると思います。

 当時は何が期待されていたかというと、東海道新幹線と在来線はしっかり運営してくださいよ、と。引き継いだ膨大な借金はちゃんと返してください、と。やがては上場できればいいね、ということだったと思います。

バブルや人事で幸運も重なった

金子:11年目に上場して、それから9年たったら完全民営化をして、それから最大5.5兆円あった借金を一旦は2兆円を切るところまで返した。それで、リニアを自己資金で作る体力が付いたものですから、おっしゃる通りの形(リニアの土台)になった。これは、東海道新幹線の競争力強化を主軸に据えて一生懸命取り組んだという経営判断が1つ。それから制度面では、(91年の)新幹線鉄道保有機構の解体というのがうまくいったことがあったと思います。

 運ということでいえば、ちょうど(民営化した)87年はバブル期の初期で、それから絶頂期を迎えていくんですよね。それで東海道新幹線は、国鉄時代の少ない黒字路線。その稼ぎはみんな他部門の赤字補填に充当していた。新幹線自体はどうだったかというと、設備投資が不十分なまま、施設を引き継いだわけです。

 でもJR東海になったら、これが経営の大黒柱なので、とにかく東海道新幹線にきちっと設備投資をして、徹底的に磨き上げて競争力を持たせようとしたんです。

 でも、最初はやっぱりおカネがない状況からスタートしているんですが、民営化したバブル期初めから91年度までに輸送量が予想外に3割伸びたんです。これは、投資を続けていく上で、スタートダッシュを切るという意味で非常によかった。それから大変な借金があって、決められた償還期に全部返していくというわけでもなくて、借り換えもするんです。ずっと低金利の時代が続いたので、借り換えるたびに負担が軽くなった。これもラッキーでしたね。

 それから、ちょっと専門的になりますが、保有機構解体は本当にやらなくてはいけない改革でした。これは国鉄改革の欠陥制度でした。新幹線を保有するJR3社(東海、東日本、西日本)の新幹線施設を保有機構が持って、3社から貸付料を取って、それで借金を返していく仕組みでした。しかも、その貸付料が固定ではなくて、経営実績によって決めると。それから貸付料なので、減価償却費が立たない。それから上場しなくちゃいけないのに、返し終わったら施設の帰属がどうなるのかもはっきりしていない。

なるほど、返し終わっても、手に入ると決まってない。

金子:これはだめなので。でも当時、国鉄改革から日が浅いときで、解消することができた。3社が資産を買い取る形になったんですね。ですから、自分の努力で利用増になれば収入が増えて、減価償却費も立てることができる。これは資金繰りという面からも、(民営化して)最初のころに整理ができてよかったと思います。

 これは当時、葛西(敬之名誉会長)が総合企画本部長をやっていたんですが、彼のカウンターパート、国鉄改革の再建監理委員会の責任者だった林(淳司)さんが運輸事務次官になっていたという、非常にいいタイミングだった。で、「これはやっぱり直さなくてはいけない」と。

2003年がターニングポイント

葛西さんの著書を読むと、人事の巡り合わせもあったと思うが、長期的な戦略で政官をうまく動かして解消していったと感じます。

金子:それは正論といえば正論で。今、申し上げたようにあの機構があったのでは、我々は今も上場できていたかどうか。それから新幹線にこんなにたくさん投資ができたかどうか分かりませんね。

5兆円の借金を確実に減らして、経営のハンドリングを持てたと。

金子:はい。あと、そういう条件を整えたことで、やろうとしていた東海道新幹線のサービスを徹底的に磨き上げることに取りかかることができた。これで収益を上げ、利益を上げ、借金も減らすことに繋がってきました。

その中で、2003年に開業した東海道新幹線の品川駅はJR東海ができたときの将来的な目標の1つだったと思います。

金子:そうですね。品川の駅は今、ここ(港区・港南)にあるわけですけれど、東京の南のターミナルとしてすっかり定着しました。渋谷や新宿経由で来られる方、東京の西南部に住む人ですね、東京駅にいったん出るより20~30分早くなりましたから。開業前の東京駅1日当たりの乗降者数と比べて、東京・品川両駅の乗降者は計2万人増えました。

 それからもう1つ。当時、品川駅は高輪口には活気がありましたけど、こっちの港南口は、開発が進んでなかった。そういうところに新しい便利な駅を造ると街って大きく変える力があることを、びっくりするぐらい実感しましたね。

赤字部門に収益が流れて進化を遂げられなかった東海道新幹線が、その重しが取れてサービスや新駅、車両を改善してこられた。

金子:時間がかかりましたね。いろいろなことが結実したのは03年に品川駅ができたタイミングです。(新幹線の)車両が全部、270キロを出せる性能にそろった年で、インパクトが大きかったんです。

 輸送量は最初3割伸びたが、速さのピークは91年で、03年までほとんど上がっていなかった。運行本数も会社発足時の数字が91年にぽんと上がり、そのまま03年になりました。それが(03年から)上がって、今は368本になりました。

 時間がかかったのは、新幹線は車両を買うだけでは速くできないから。まず電力が足りない。それから車両も、92年に「のぞみ」の運行を始め、300系がこれは270キロ出るわけです。ほかの列車は220キロまでしか出ない。そうすると、遅い列車の中に1本入れてもダイヤはあんまり改善できない。それが全部(の新幹線車両が)最高270キロになって一気に画期的なダイヤになった。それが03年。

 いろいろなことが結実をしました。01年にサービスを開始した「エクスプレス予約」も。当初は利用率が低かったんですが、だんだん便利だと認めてもらえた。去年からは(チケットレス乗車サービスの)スマートEXを導入して、今、指定席を使う3人に1人がこれらのサービスを利用しています。

 窓口で長い時間並ぶのでは、便利さが実感できませんが、トータルの時間を短くできるということですね。いろいろなことが結実して、今は過去、一番いい状態になっているなと、そんな感じですね。

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