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明治日本の産業革命は奇跡だったのか

2017年10月3日(火)

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当コラムでは、経営者としてソニーを率い、現在は国立研究機関の産業技術総合研究所で指揮を執る中鉢氏が、日本の産業や社会に対する見方や想い、ビジネスパーソンが忘れがちな重要なことなどを描いてきた。今年3月に連載は終了したが、中鉢氏の想いは尽きない。今回、中鉢氏が久しぶりに筆をとった想いを、続編として紹介する。同氏が着目したのが、明治日本の産業革命である。(編集部)

 8月の初旬、岩手県内の企業を訪問した。日程の2日目、その日は釜石市にある水産加工会社の工場見学を終えれば、ホテルに帰るだけというスケジュールだった。以前から、機会があれば釜石市内にあるはずの橋野高炉跡に行きたいと思っていた。聞けばその水産加工場からは小1時間ぐらいで行けるという。午後3時半に全行程を終了したので、すぐに出発すればまだ明るいうちに帰ってこられる計算だ。同行していた人たちも誘って、10人で橋野高炉跡に向かった。

 釜石市の中心部を抜けると県道35号線に入る。この道路は主要地方道釜石遠野線と呼ばれる道路で、橋野高炉跡はこの道沿いにある。橋野高炉跡にはこの道を遠野側から行くこともできるのだが、遠野側は前年の台風10号の影響で不通であったため、私たちは釜石側から行くことになった。ところが、こちらも一部崩壊し片側車線の交互通行になっている箇所があった。進むにつれ道は狭くなり、山の中にどんどん入って行く。あたりには人家はなく、人影もない。道路を補修している人たちの姿を見かけると、ほっとするほどの寂しい道だった。

 地元の人が言った通り、小1時間で橋野鉄鉱山インフォメーションセンターにたどり着いた。100台は駐車できそうな広い駐車場には、私たちの車以外には1台もない。建物に向かっていくと、今まさにドアに鍵をかけようとしている係の人がいた。今日の見学時間は終わりだというのである。時計は午後4時半を指しており、玄関に表示してある閉館の時間ピッタリだった。係の人はFさんという、このセンターでボランティアガイドをされている方だった。私たちが10人ほどの「団体」であることを知ると特別に鍵を開けてくださった。

「西洋の大砲には太刀打ちできない」と痛感

 館内に入り、Fさんが消灯したばかりの照明を点灯すると、大きな部屋の至る所に展示されている橋野の高炉に関する解説のポスターが目に飛び込んできた。私たちが思い思いにポスターを眺めていると、Fさんから「それではビデオを上映します」と案内があり、橋野鉄鋼山高炉跡の紹介ビデオが流れた。ビデオは日本最古の高炉である橋野高炉の歴史と、これを建設した大島高任(たかとう)の人物や功績を紹介していた。

 大島高任は代々盛岡藩に仕える藩医の家に生まれたのだが、江戸で蘭方医学を学んだのち、長崎に渡って採鉱学や冶金学など鉱山学を学んだ。その後、水戸藩の徳川斉昭に認められ、那珂湊に反射炉を建設し、大砲鋳造を試みる。ところが、原料が砂鉄由来の銑鉄では西洋の大砲には太刀打ちできないと悟り、良質な銑鉄の必要性を痛感する。そんな中、釜石近くの甲子村で磁鉄鉱が発見されたことを知り、盛岡藩大橋(現在の釜石市)に洋式高炉を建設して実験を重ねた。彼が設置した高炉は、橋野など10基を数えると言われている。高任が大橋で初出銑したのは1857年(安政4年)12月1日で、明治維新のほぼ10年前のことである。ちなみに、この12月1日は今日「鉄の記念日」となっている。

 洋式高炉ができるまで、日本では「タタラ」で銑鉄や鋼のもとになる玉鋼を生産していた。タタラ製鉄は主に砂鉄を原料にして、木炭で炉内の温度を高め、砂鉄を溶かして鉄を得る方法であり、基本的に背の低い長方形の炉が使用された。

 高任が習得した高炉技術は、オランダ陸軍のヒューゲニン少将が執筆した鉄製大砲鋳造のための著書を基にしている。これは背の高い徳利状の炉の上方から鉄鉱石と木炭を層状に注入して、炉内に生じる還元ガスによって鉄鉱石を還元、つまり鉄鉱石から酸素を抜いて、炉の下方より連続的に銑鉄を取り出す方式である。タタラがいわゆるバッチ式なのに対し、高炉は連続式なので生産性が高い。

コメント3件コメント/レビュー

明治政府は教育を従来の中国古典に基づくから西欧学問に
基づくものに変えました。私はこのあたりの歴史に詳しく
ありませんが、それをめぐって内乱が起きたという話しも
聞きませんので、西欧学問・技術の方が優秀であり、日本も
西欧学問の習得を教育の基礎にすべきだということは、当時の
識者の間では決着済みの事柄だったのかもしれません。
そしてそれは江戸時代に行われていた西欧学問・技術の取得が
あったからこそできた判断です。西欧学問・技術が優秀で
日本もそれを教育の基礎とすべきであるという認識が江戸時代の
いつごろ、どのような人たちの間で育まれ、広がり共有される
ものとなったのか、技術者としての私は、江戸から明治と
言った時にもっとも関心があることです。
どなたか教えていただける方はいらっしゃらないかなと
思っています。(2017/10/26 12:39)

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「明治日本の産業革命は奇跡だったのか」の著者

中鉢 良治

中鉢 良治(ちゅうばち・りょうじ)

産業技術総合研究所理事長

1977年、東北大学大学院工学研究科博士課程修了。同年、ソニー入社。2005年、同社取締役代表執行役社長に就任。2013年より現職。

※このプロフィールは、著者が日経ビジネスオンラインに記事を最後に執筆した時点のものです。

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記事のレビュー・コメント

いただいたコメント

明治政府は教育を従来の中国古典に基づくから西欧学問に
基づくものに変えました。私はこのあたりの歴史に詳しく
ありませんが、それをめぐって内乱が起きたという話しも
聞きませんので、西欧学問・技術の方が優秀であり、日本も
西欧学問の習得を教育の基礎にすべきだということは、当時の
識者の間では決着済みの事柄だったのかもしれません。
そしてそれは江戸時代に行われていた西欧学問・技術の取得が
あったからこそできた判断です。西欧学問・技術が優秀で
日本もそれを教育の基礎とすべきであるという認識が江戸時代の
いつごろ、どのような人たちの間で育まれ、広がり共有される
ものとなったのか、技術者としての私は、江戸から明治と
言った時にもっとも関心があることです。
どなたか教えていただける方はいらっしゃらないかなと
思っています。(2017/10/26 12:39)

私も「奇跡」などと言われると腹が立ちます。
日本には庶民にまで行き渡る学問があり、産業革命に発展するためのベースが十分にありました。化学でいえば鉄砲の時代にも、日本には黒色火薬はあるものの、硝石がなかった時、ヨモギの根元に馬の小水をかけて硝石をつくったと聞きます。
「奇跡」ではなく、きっかけがあって急速な発展があった、そういう事だと思います。(2017/10/03 23:42)

釜石製鉄の底辺にある時事砂のですね。一般には隠れた歴史です。よいお話を読ませていただきありがとうございました。久しぶりの記事でしたが、これからもときどき書いていただけることを楽しみにしています。(2017/10/03 07:49)

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