プロフェッショナルに聞く

「コウジキン博士」と旅する、奥深き発酵の世界

世界に誇る「和食文化」は“飼いならされた麹菌”によって生まれた

文:松田 慶子 / 写真:大槻 純一 10.29.2018

日本酒、味噌、醤油、酢、かつお節…。世界に誇る和食文化の立役者は、すべて麹菌(こうじきん)が生み出した発酵食品だ。今回は、その麹菌の生態や応用を研究する微生物学者・中島春紫(はるし)さんの研究室を訪れた。お酒と料理が大好きで、研究室では麹菌を培養した味噌づくりも。文字通り、麹菌と寝食を共にする科学者がひも解く、奥深い発酵の世界をのぞいてみよう。

「まあ、お茶でも」

そういって教授室に招き入れてくれたのは、明治大学農学部農芸化学科微生物生態学研究室教授の中島春紫さん。隣接する実験室では、試験管やビーカーが所狭しと並び、学生たちが忙しく実験に取り組んでいる。その様子を穏やかに観察しながら、中島さんはおおらかな口調で語り始める。

「日本の豊かな発酵食の文化は、カビの一種である麹菌、中でも黄麹菌、学名アスペルギルス・オリゼー(A・オリゼー)が育んだといっていいと思います。事実上、この菌は日本にしかいません。これをうまく“飼いならした”ことで、日本独自の発酵文化が形成されたのです」

発酵とは、微生物がエネルギーを得るために、自らが持つ酵素を使って有機物を分解する現象のこと。糖を分解して乳酸をつくる菌の総称が乳酸菌で、同じく糖を分解してアルコールをつくる菌が酵母だ。

「麹菌は、アミラーゼという酵素を使ってでんぷんを糖に分解します。またプロテアーゼという酵素を使って、ほとんど味のないタンパク質を旨味のあるアミノ酸に分解します。日本酒や、和食特有の醤油、酢、味噌、みりん、さらにかつお節や旨味調味料などは、すべて麹菌のおかげなのです」。発酵のしくみについて、中島さんはこうやさしく説明してくれる。

和食は、素材の持ち味を生かす繊細な味付けや、旨味の活用による栄養バランスの良さなどが評価され、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。いまや世界的に注目されている和食だが、その土台を支えているのが発酵の技術であり、類まれな麹菌、A・オリゼーあっての食文化といっても過言ではない。

麹菌は日本の“国菌”に認定されている

中島さんのいう、麹菌を“飼いならす”とはどういうことだろうか。

「麹菌はカビの一種です。実はA・オリゼーは、毒を出す緑色のカビ、アスペルギルス・フラバス(A・フラバス)とものすごくよく似ている。生物学的には同一種にするのが妥当なくらいです。ところがA・オリゼーは、A・フラバスの毒をつくる遺伝子が壊れていて、アミラーゼをつくる遺伝子が3つに増えている。ことごとく発酵醸造に便利な性質になっているんです」

なんと、人間の敵だった毒を出すカビが、変異によって、人間の生活の質を高める強い味方になったというのである。中島さんは続ける。

「おそらく昔の日本人が、A・フラバスの中から便利に使えるカビを選んで、培養したのでしょう。カビは、身を守る際に毒をつくるので、大事に飼われていれば毒をつくる必要はない。だから毒をつくる機能が退化していったと考えられています」

まさに、“飼いならした”わけだ。このような選抜育種を、日本人は2000年ほど前から行ってきたというのだから驚きだ。「そして、すでに室町時代には、麹菌を売る専門職がいたという記録があります。細菌の純培養技術が確立したのは、1880年でコッホによるとされていますが、いやいや、700年前の日本にすでにプロがいたんです」と、中島さんは話す。

2006年には、日本醸造学会が、麹菌を日本の“国菌”に認定した。日本の食文化への貢献を評価してのことだ。

中島さんの研究室では、麹菌のハイドロフォービンというタンパク質に重金属を吸着する機能をもたせ、水質浄化に役立てる研究などが行われている

発酵食やお酒の味を決めるのは微生物?

発酵食品は世界各国にある。中島さんによると、高温多湿のアジアでは主にカビを使った食文化が、乾燥しているヨーロッパでは主に乳酸菌を使った食文化が発展したという。

とはいえ同じ日本国内でも、九州や沖縄では黄麹菌ではなく黒麹菌が多く用いられるという。九州では日本酒より焼酎が生産されているのは、そのせいだ。

「その理由を説明する前に、まず日本酒の醸造方法を解説しましょう。日本酒には麹菌と酵母という、2種類の微生物を使います。蒸したお米に麹菌を生えさせて、水を張ったタンクに入れる。すると麹菌はおぼれ死んで、残ったアミラーゼという酵素が蒸米を糖に変えます。それをかき回すと、空気中から蔵に住みついているいろいろな菌が飛び込んでくる。乳酸菌も酵母も入ります。乳酸菌と酵母は、どちらも糖を分解するライバル同士なんですよ。日本酒の酵母は乳酸菌より低い温度を好むので、10〜15℃くらいに保ってやる。すると乳酸菌は活動せず、酵母が糖をアルコールに変える。日本酒を冬に仕込むのは、このためです」

ちなみに、酵母でさえギリギリ生きられるかどうかの低温にすると、酵母は香りの出るエステル系の有機物をつくる。厳密に温度管理をし、意図的にこの香りを引き出した酒が吟醸酒だ。

話を元に戻そう。暖かい地域で焼酎や泡盛が作られるのも、麹菌と乳酸菌の相克関係によるそうだ。

「冷蔵庫のなかった時代は低温を確保できないので、酵母ではなく乳酸菌が働いてしまう。そこで黒麹菌を使った。黒麹菌は黄麹菌と違って、糖だけでなくクエン酸という強い酸もつくるんです。乳酸菌は、自分で酸をつくるくせに酸性が強くなると自滅するという性質があります。だから黒麹菌を使うと、乳酸菌は活動できず酵母が働くのです。ただしそうやってアルコール発酵が進むと、クエン酸は残っているので酸っぱくなってしまい、とても飲めません。だから蒸留するんです。クエン酸は揮発しないので、アルコールだけを取り出せるわけです」

では、ビールはどうだろう。ビールが誕生したヨーロッパ内陸部では、乾燥した気候なので乳酸菌が生えやすい。だがアルコール発酵のためには酵母の働きが必要だ。

「昔からビールの生産工程ではホップが使われてきました。あれが大切な役割を果たしているのです。ビール醸造では麹菌の代わりに、麦が発芽する際に産生するアミラーゼを使って大麦を糖にします。それを放置すると乳酸菌が生えてしまうので、イソα(アルファ)酸という酸を含むホップを入れたんです」

今から千年以上前に、風味づけと保存性のよさから選ばれたホップ。ビールのほろ苦さはこうして生まれた。その土地の風土と微生物とは深い関係があり、微生物とどうつきあっていくかという営みのなかで、さまざまな発酵食やお酒が生まれたのである。

中島さんの研究室はコミュニケーションが活発で和気あいあいとしている