インタビュー 情熱と挑戦の先に

【妙義龍】下積みから頂点へ、そして「ゼロ以下」からスタート

カベと向き合い挑戦する:妙義龍(関取/力士)第2回

文:十代目 萬屋五兵衛/写真:陶山 勉 07.21.2016

その筋肉質な体から、「アスリート型相撲取り」と呼ばれる力士・妙義龍。独特なアプローチで角界の頂点を目指す現役力士・妙義龍の姿を通じて、カベと向き合いながら挑戦する生き方を読み解く。(全3回)

大学でさらなる研さんを積む

高校相撲で優秀な成績を残した豪栄道は、そのままプロの道、大相撲へと進んだ。しかし、妙義龍はプロを目指さなかった。

「僕はたまたま優勝した高校に在籍していたようなものだと思っていました。だからプロになることは考えていませんでした。大学に行って、その中で将来の夢が見つけられたらいいかなと思っていたんです」

全国優勝メンバーの1人を大学相撲部が放っておくことはなかった。複数の大学から誘いがあり、中でも一番熱心に誘ってくれた監督を信じて、日本体育大学の門をたたいた。

「高校とは違い、1年生から全試合に出してもらえました。勝てない日々が続いたのですが、それでも監督は僕を使い続けてくれていました。

就任して2年目の理論派の監督は、1年目に勧誘した1学年上の先輩たちと僕たちが3、4年生になる時には、ゴールデン時代が来ると言いきっていました。言葉通り、実際に3年生になった時に、18年ぶりに大学で日本一になれたんです」

「プロになろう」、妙義龍の中に火が付いた

大学の4年間で、妙義龍は多くのタイトルを獲得する。学生相撲の個人戦、団体戦をはじめ、日本国内や学生という枠にとどまることなく、世界選手権にも出場した。4年生になると選抜大会で優勝した。

そんな矢先、左膝を痛めた。最終学年は極めて重要な時期である。ここでの成績次第で、卒業後の進路が大きく変わる。なのに妙義龍には試合に出られない日々が続いた。

「途方に暮れていました。最終学年になり、全国で優勝できていたのに、試合に出られないもどかしさや焦りを感じていました。将来の道についても考え始め、教員免許の実習で母校の埼玉栄高校に行って、教師にも興味を抱き始めていました。その他にも、相撲部がある実業団や警視庁等からも声を掛けてもらえていたんです。それでも、不思議なことにプロである大相撲へ進む考えはなかったんです」

ケガから復帰したのは10月の国体だった。しかし、ケガでのブランクを感じさせない堂々の優勝を飾る。これにより妙義龍は「付け出し資格」というプロである大相撲に入門できる資格を獲得した。

「その優勝で『プロになって活躍できるかもしれない。このチャンスを生かすべきだ』と初めてプロへの気持ちが持ち上がってきました。同時に、同級生だった豪栄道関が幕内に昇進をしていて、たまに食事や遊びに連れて行ってもらっていたのです。学生からしたら考えられない存在になっていました。プロの姿をかいま見せてもらえたことで、自分の中に火がつきました」

目指すものが明確になった。しかし、自分も豪栄道と同じように出世できるかは分からない。

不安を感じた妙義龍は、相撲部屋に出稽古をしに行くことを決めた。自分の力がプロの力士たちの中で、どれだけ通用するかを知っておきたかったからだ。

「プロの力を肌で体感しておきたかったんです。それまでは、テレビ放映などをほとんど見ていなかったのですが、出稽古中に胸を貸してくれた力士が、十両優勝をした光景を見て、自分も頑張れば通用すると思えるようになっていました。高校時代、善戦をした豪栄道関は、もう三役まで昇進していましたから心は決まりました。

その後も出稽古を続け、当時、現役の大関だった栃東さんに胸を貸してもらうチャンスがありました。自信を持ってぶつかりに行ったのですが、微動だにしませんでした(笑)。これが大関なのか、と思うと同時に、やってやるという気持ちのスイッチが入っていました」

恩師でもある高校時代の監督に相談をし、現在の親方である境川部屋の元小結・両国に出会う。その部屋は同級生だった豪栄道が所属していた。

「親方の人柄で決めました。豪栄道関がいることは全く気にならなかったです。大相撲は1人で結果を残さなければならない競技です。誰がどこにいても、全ては自分しかいません。

かばん1つで部屋に入りました」

まるやま食堂